京都憧憬 
       
   
         臨済宗 妙心寺派 世界文化遺産 ・大雲山 龍安寺                 
                                                    
                                                                                                      2008年5月21日更新



 私は、2006年4月6日の午前11時ごろ、龍安寺を訪ねましたが、庫裏前の、なんとも言えず風雅にみたされた龍安寺垣と石段を目にしたとき、心酔の境地に陥 入りました。 

 1450年(宝徳2)に、室町時代の管領・細川勝元が、妙心寺の義天玄承に帰依して禅寺を建立したのが龍安寺の始まりと伝えられています。

 平安末期に藤原実能が、衣笠山山麓に山荘を建て徳大寺家の別荘としていたのを譲り受けたものです。
  その後、応仁の乱で兵火を浴びて焼失し、勝元の子政元が1499年(明応8)に再興しました。

 趣ある石段を上った所に方丈と庫裏が建っていました。

                              風情をかもす龍安寺垣と石段

 

  方丈の南庭が、石と砂そして苔だけで構成されている枯山水の名園・<別名・虎の子渡し>です。
 
  杮葺の低い油土塀に囲まれた75坪ほどの地に15個の石と白川砂。
 
  油土塀の屋根は左側が広く、遠近法を取り入れています。

                              虎の子渡しの庭

                   


 
龍安寺石庭は東から 西へ1群(三尊石?)・2群(鯨?)・3群(虎?)・4群(亀?)・5群(水鳥?)の石組みで構成され、大小15個の石があります。

 石組みのまわりに苔を敷いただけの簡素な構成で、禅の境地を表現していると云われていますよ。
  
  1群の石が最大で、油土塀寄りに配された2群の石を低く伏せることにより庭に奥行きをもたせているとも。

 そして、方丈の縁側から石の数を数えると13〜14個しか見えないように作庭(1群の三尊の石1個あるいは、3群の虎の子1個などが見えにくいのです)。

 虎の子渡し→ 漢の江陵で太守を慕い、人々はもとより親虎までが子虎を隠して大江を渡ったという故事にたとえられて、虎の子渡しの庭とも呼ばれています。

  石をたどると「心」という字が描けます。
  
 龍安寺石庭は、@大徳寺大仙院A西芳寺B天龍寺C鹿苑寺D慈照寺庭園等と共に室町時代を代表する枯山水庭園です。

                   
                    

                      枝垂桜とモダンな龍安寺虎の子渡しの石庭

      

 
 
15と云う数は、東洋では満ちた数・完成した数・真理の数を表していますね。(十五夜満月)    

 七・五・三の祝い→ 7+5+3=15 三・三・九度の杯→ 3+3+9=15

 人は謙虚で慢心せず、人生の修行に励みなさい、という禅宗の教えな のでしょうか・・・。

 下記はお寺の説明パンフです。

 「禅では自己が「三昧」「無」になりきることによって自他一如の世界を自覚し、その自覚を通して出てくるものは、山川草木ことごとく神、仏であるとするが、この庭はそうした禅の極致を表現した永遠に新しい庭といわれ、時間・空間を越えて、静かに心眼をひらき自問、自答するにふさわしい庭といえよう」。

 作庭者は室町時代の相阿弥とも伝えられていますが、分っていません。

 細川政元が龍安寺を再興した1499年ころに造られた可能性もありますね。

 政元は、足利義澄を11代将軍にして権勢をふるいましたが、奇行の多かった人ともされています。

 2群の石組みの右の石裏には、阿波・徳島“小太郎”“清(彦?)二郎”と刻まれています。

 この庭は石を山とか仏又は仏の世界にたどり着こうとする人、砂は海とか雲海を現し、人生の縮図とも云われています。

 
 ☆砂を海とすれば、石は島のように。

  砂を雲海とすれば、石は山の峰のように。

  弟子達(鯨・亀・水鳥・虎親子)が海(娑婆)を渡って仏の世界へ。

                         

                           方丈西側庭園・雲龍の庭

      

  
 1588年(天正16)2月、豊臣秀吉が、龍安寺の石庭の西北隅にあった糸桜(しだれざくら)を賛美して、歌を詠んでいます。
 
 大きな木の前方に「
糸桜」がありました。

 青苔一面の西側庭園は、樹木の根っこの形が飛龍の様で、苔を雲として表現しているとも云われています。

 

              知足の蹲踞(ちそくのつくばい) ・水戸光圀が寄進 (実物で〜す)


  方丈の北東に、東庭を隔てて、蔵六庵の茶室があります。

 その側に、水戸光圀が大日本史を編集される際に、資料提供を得られたお礼として寄進した銭形の「吾・唯・足・知(われただたるをしる)」と刻まれた手水鉢が置かれていました。 

 お釈迦さんの遺言のお経  《禅の心》 《茶道の心》

     “知足の者は、賎(いや)しと雖()えども、富めり

     不知足(ふちそく)の者は、富めりと雖えども、賎し”

(訳)これで充分ですと、腹八分目で、足ることを知る人は、一見貧しそうに見えても、心は満ち足りて豊かである。

足らん、足らん、と不平を云う者は、一見大金持ちの様に見えても、心は満たされず、貧しい。

方丈庭園と同じ教えなのでしょうか。

                       蔵六庵の茶室・東庭の灯籠

  蔵六=亀の意味で、頭・尻尾・手足四本の六つを甲羅の中に隠すので、この名が付けられました。
 
  仏教的には「六つ」は「六根」を指し、「蔵六」は「六根を清浄におさめる」の意となります。
   般若心経→「無 眼耳鼻下身意 無 色声香味触法」

  仏教の教えは、非常に難しいですね。

 
  私は、庫裏を出てから右手に周り、ラストに、ゆっくりと鏡容池を巡りました。

  鏡容池は、龍安寺の塔頭大珠院*の前に広がる池で、徳大寺家の山荘の遺構です。

           鏡容池に衣笠山が映る                            水分石

    

 可愛らしい衣笠山*がまじかに望めました。

 鏡容池に目を映すと、池面にくっきりと衣笠山が映し出されていました。

 風流この上もありませんでした!

 鏡容池のほぼ中央に弁天島が浮んでいました。

 そして、最終場所に水分石がありました。 

 私は、龍安寺の風雅・簡潔さ、そして、その教えに心をうたれ感激の面持ちで、午後1時ごろ山門を後にしました。


  
 *大珠院→ 真田幸村の墓があります。
 安土桃山時代の武将で、大坂冬の陣・夏の陣で活躍したが死亡(1567-1615)。
 
 *衣笠山→ 昔、仁和寺に住まわれた宇多天皇が真夏に、前方に眺められる富士に見える山を見て、雪景色を見たいと所望され、家来衆が民家から白衣(しらぎぬ)を 寄せ集め、山の木にかぶせ雪に見立てたという伝説から衣笠山と名付けられたと云われています。

参考文献: 交通公社の新日本ガイド15「京都」
    日本の庭園美「龍安寺」集英社


 

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